2018年度ツイシネお題『リメンバー・ミー』について、イェイRock輔さんから下記の感想をいただきました。ありがとうございます!映画の感想は人それぞれ。ツイシネでは引き続き、皆様からのお題映画へのご感想やお題映画以外のご感想をお待ちしております。
『リメンバー・ミー』~忘れ去ることの残酷さ、記録と存在あるいは権力について
ディズニー/ピクサーによる2018年日本公開作品『リメンバー・ミー』(原題:COCO)は、国内メディアによるオリジナルCMやプロモーションによる「泣ける映画」、「家族との絆」に見どころを絞った展開で、実際に劇場鑑賞した人々の声から”泣けた”との感想を獲得する好評価に至っている。
事実、自分の意見としても話し運びの軽快なよくできた映画だと思ったし、”泣けた”という意味合いにも頷ける。もちろんそういった人々の評価は否定しない。
しかし、常に予想を超えてくる期待のピクサー作品としては単に無難な佳作という評価だけでは正直物足りない気もする(それでも作品水準としては文句なしに優)し、新しい境地や視点(=それは考え方であっても、技術的であっても)の提示が今作からはあまり汲み取れなったことについては、やはり残念な思いもある。
その中で、真っ向からこの作品を拒絶(=決して感情的な否定ではない)する声があり、その声に耳を傾けるにしたがってこの「リメンバー・ミー」の持つ構造的な問題点にいくつか気づかざるを得なくなってしまった。そして、その問題点の提示によって、おそらく制作陣は想定していなかったであろう物語世界では描かれなかったある種の闇を浮かび上がらせることになってしまったと思われるため、少しお話しさせてほしい。
まず問題点の一つは、「死者の世界のルール」である。主人公のミゲルが、死者の世界に導かれ再び生者の現世に戻るためには、《家族からの許し》を得なければならない、というこのお話しの根幹たるメインルールなのだが、実は死者の世界に導かれるロジックについては、物語の中では一切説明されていない。
察するに、家族からの許しを得ることが現世に戻るために条件なのであれば、死者の世界に誘われるためには、(家族の許しを得なければならないような)家族との約束を破るということにならざるを得ない、と推察される。
そこで浮かび上がる、もう一つの問題点とは「家族教育」のことだ。ミゲルが許しを得なければならないのは、死者の日の祭壇の最上位に位置するママ・イメルダによってリヴェラ家の家訓としてその後代々受け継がれる《音楽に興じる》という禁忌の存在についてである。
これについて正当性を持つロジックはもちろんなく、物語上でもその合理性を説明されることはない。ただただひとりの個人的な感情の帰結が、後々検証されることなく盲目的に家訓として引き継がれるという「家族教育」システムの暴力的な作動を、スクリーンを見る我々は目の当たりにする。
そしてこの暴力による統制が敷かれた族稼業の下に心から「愛」を表現し、それを信じている血統家族という共同体によるおぞましさの象徴として受け取れるように、それまでの肯定的な家族愛の意味合いはここでまるで反転してしまうように見えてしまった。たとえそれが、舞台となるメキシコの風土的にありえないような設定(=音楽禁止)のコミカルさであったとしても、劇中客観的なロジックを持たない「家族教育」の暴力は、正直心から笑えない。
後に禁忌が円満解決するエンディングが用意されていようとも、そのまるで洗脳から目が覚めるような一族の価値観の反転ぶりすらも、やはり奇妙にしか感じられないし、そのあたかも最初から存在しなかったかのような同調風景は、手法としての手際の良さとは決して言えない。であるからこそ、この違和感は広がるばかりだ。
話しを物語に戻せば、理不尽な家訓を反古することで、物語を推進するミゲルの行動はさらなる「死者の世界のルール」を知ることになる。生者の世界で(家族から)《忘れられたものは、死者の世界からも消え失せてしまう》この「2重の死の定義」が、更にクライマックスへと活劇を推し進めることになり、自らの音楽を掴み取る夢の体現をしたエルンスト・デラクルスの元に向かうために道中を共にするヘクターも、実はこの「2重の死の定義」によって取り返しにつかなくなる事態に終わる前に条件付きでミゲルに力を貸すことを承諾するのだが、自らの死の真実をミゲルとともに突きつけられることになる。
この一族の「禁忌」と「2重の死」、そして「記憶」にまつわる定義とルールで、この「リメンバー・ミー」は構成されているのは、ここまでの説明を受けるまでも無く映画も見たものであれば明らかだろう。
だからこそ気づかなければならない。この物語はまぎれも無く「記録」と「存在」のことなのである。そしてその存在は、ここでは生者たる家族にのみ委ねられている。
物語に沿うと、なぜママ・イメルダ以前の血統は死者の日の祭壇では途絶えているのか(19世初期に誕生した写真技術というテクノロジーは抜きにして)。またミゲル以外に一族の禁忌を犯した者は、過去にいなかったのだろうか。仮にミゲル以前に禁忌を犯し、死者の世界に誘われ血統からの許しを得られることなくそのまま死者の世界の住人となり、へクターと同じく祭壇から抹消されてしまった者がひとりもいなかったなど、到底言えるはずもない。
果たしてこれは愛すべき家族の物語なのであろうか。むしろその一線を越えてしまった者の永久排除が可能になるという恐るべき権力システムの構造として、読むことはできないだろうか。
さらにこのルールを推し進めることによって、血統自体が絶滅するような未曾有の大災害に一族が被災するとき、またホロコーストのように人種そのものが消滅する政策の対象となるとき、我々はいつでも、あたかも最初から存在しなかった名もなき死者(いや死者としての概念すら持ちえないような。。)として、かの死者の世界を経由することなくその欄外に追いやられてしまうシステムをこの映画の設定では構築してしまっている。
考えようによっては別の意味で泣ける話だといえよう。
自分は少々極端すぎる仮説を展開しているのだろうか。いやそうは思わない。なぜならヘクターは何者かの意図により死に至らしめられているのであるから。
物語世界のルールに則って説明するだけでいいのであれば病死のような自然死でも制作上不都合はなかったはずだ。しかしながらヘクターの死は紛れも無く権力の行使により帰結していることについては、なんらか制作の意図を感じざるを得ないのである。
本作の監督のリー・アンクリッチと脚本のエイドリアン・モリーナは、『トイ・ストーリー3』と同じチームだったとのことだが、図らずも前作の『トイ・ストーリー3』が、《存在=価値》を継承することによってその想いを永遠に紡ぐ結論に至ったのに対し、『リメンバー・ミー』では《存在=記録》が人の記憶という有限に委ねられ、更にはときに感情によって采配のあおりを食うという消え去る可能性を持つ残酷さについてのお話なのだと解釈できる「闇」の存在を、あろうことか露呈してしまった。
こういった行間を読み込む余地を持った作品なのだとすれば鑑賞前に期待していたピクサーの持つ毒性を脳内補完できるかもしれないし、それを踏まえて家族であらためて権力による搾取や家族愛について語り合える作品になるのであれば、今まで多様性による帰結を肯定してきた実にピクサーらしい娯楽作品としてそれぞれの結論を導く機会を今作でも提供しているのかもしれない。
text by イェイRock輔